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長岡空襲について

   日本海側に位置する新潟県では、太平洋側の多くの都市が空襲を受けていたのに比べると、B-29やその他の攻撃は少ない方でした。アメリカ軍機の来襲は、偵察や伝単(宣伝ビラ)投下の他は、新潟港への機雷投下が主なものでした。爆弾の投下に関しては、7月20日に長岡近郊の左近集落に大型爆弾が落とされ、4人の方が亡くなっています。また長岡空襲後の8月10日に、新潟で艦載機数十機による機銃掃射がありました。新潟県内における日本側の反撃としては、航空機によるものは一切なく、7月20日に新潟に機雷投下に来たB-29を高射砲によって一機撃墜したにとどまっています。

   長岡は新潟県第二の都市であり、1945年7月時点での市の人口は74,508人でした。空襲を受けたのは、1945年8月1日の午後10時半からです。この日、テニアン島から離陸した第313航空団のB-29爆撃機125機(爆撃分だけの機数)が志摩半島から富山湾に抜け、新潟県に侵入して長岡市とその周辺に多量の焼夷弾を投下し、福島県へ脱出しました。投下した焼夷弾は重さにして925トン、焼夷弾の子弾の数では15万発以上になるといわれています。

   長岡の町では、午後9時6分に警戒警報が発令されました。多くの人はラジオをつけたそうですが、この日に限って雑音でよく聞き取れない状態だったと言います。これは別のB-29がスズ箔を散布して電波妨害を行ったためです。警戒警報は解除されないままに時間が過ぎ、午後10時26分に空襲警報が発令された直後には宮内方面に第一弾が投下されました。この最初の投下位置については諸説ありますが、M47焼夷弾を目印として市の南部の宮内と市の北部の西新町に投下して爆撃範囲を示したというのが、少なくとも作戦上の手順だったと思います。

   夜の10時半に始まり、翌2日の零時10分まで約100分間続いた無差別の焼夷弾攻撃は、長岡の町を火の海にしました。猛火の前では消防車も退避せざるを得ず、市民による縄製の火たたきやバケツリレーによる消火は危険に身をさらす行為でした。長岡市役所では鶴田義隆市長のもと、消火活動に当たりましたが、非難時期を逸してしまい、市長は市役所隣の北越製紙本社裏の防空壕内で亡くなりました。

   助かった多くの人は、中心街から逃れて、東側の栖吉川や西側の信濃川方面に避難しています。これらの人は、防空壕が危険であるととっさに判断したり、壕が満員で入れなかったり、あるいは東京や名古屋で空襲を体験した人から防空壕が危険であると言われたなどの理由で、郊外に逃げ、助かりました。その一方で、防空壕の中に残った人たちや、中心街から逃れられなかった人の多くは亡くなりました。平潟神社では271人、神明社では140人の方が亡くなり、これだけでもなくなった方の3割弱にあたります。

   亡くなった方は遺体の傷みの激しい場合が多く、身元の不明の遺体は積み重ねて重油で荼毘に付されました。こうした無縁仏の方々は犠牲者の約4分の1に達したといわれています。遺体の処理は4日まで、3日間かかったそうです。亡くなった方は確認されているだけでも1474名にのぼり、おそらく1500人は超えるものと考えられています。

   長岡空襲は、終戦のわずか2週間前の出来事であり、戦争がもう少し早く終わっていれば、長岡の人々も猛火の中で亡くなることもなく、戦後の豊かな日本の暮らしを送ることが出来たでしょう。否、一番望ましいのは、戦争が最初から起きないことでした。
(以上は大部分をref.#3によっています)